連合渡御20周年を迎えて
2004年 8月8日
松井 昭三
「御輿のお山入り」若宮八幡宮より川崎大師平間寺境内に近隣町内会の御輿を連ねて渡御を始めてから、今年で20回目を迎える事になり、発足当時に関係した一員として、当時を少々想いおこして見たいと思います。
昭和60年6月30日に大師中町町内会に御輿が新調されました。当時町内会長の川上光勇氏が前年より計画を進めていたものですが、川崎大師10年毎の大開帳奉修の年である事を念頭においての事だと今は推察する事が出来ます。
祭典部長を担当しておりました私は、御輿発注先の浅草「宮本商店」に製作過程等の打ち合わせを重ねておりましたが、川上会長が突然御輿の芯柱に「大日如来」を乗せると言い出したのです。そして御輿を若宮八幡宮より川崎大師にお山入りをすると云われました。
町内の役員一同に諮りましたが、川崎大師のお膝元である町内会に反対する意見は有りません。早速長老の方々が、若宮、川崎大師双方に内諾をいただき、肝心の「大日如来」の調達を私が担当する事になりました。
早速浅草「宮本商店」に相談を致しましたが、神様を彫るが仏様は作れませんと断られまして、方々の仏具店を歩きました。座像はありますが御輿の芯柱に収まるような、浮彫りレリーフ調な物は見当たりません。止む無く、私が彫って見ましょうかと会長に相談しましたら、まあそれなりに見えればいいからと云われまして、それから私の仏像彫刻との出会いが始まったわけです。
初めての仏像彫刻ですが、レリーフ位なら出来ないことは無いだろうとたかをくくっていたのですが、やはり仏様にはそれぞれの特徴というか、決められた約束ごとが有り、書店で買い求めた本を参考に勉強を致しました。20年後の今は、恥ずかしくなるような作でしたが当時は夢中でした。ようやく「それらしい」大日如来の浮彫りが出来あがり、川上会長の奥様から、ダイヤモンドの白毫を戴き完成させました。
4月19日には若宮八幡宮宮司の許可を書面で戴き、5月10日には川崎大師平間寺貫主より「大日如来」の開眼をして戴きました。神仏合祀の中町御輿は昭和60年7月31日の読売新聞で紹介され、川崎大師だより8月号にも掲載されました。
さて、この様な経緯を近隣の町内会が聞きつけて、ほっとく訳が有りません。うちの町内御輿もお大師様の境内に入りたい、神仏合祀の大師中町神輿と一緒なら「お山入り」出来ると考えた訳です。まず、川上会長懇意の田中保一氏(大師本町)が近隣の町内会に働きかけました。次第に賛同者が多くなり、それならと若宮八幡宮の夏祭りに参集する全町内会に声
を掛け「御輿の連合渡御」を発足させようと発展して行きました。
夏祭りを目前にして、ようやく7月29日に「若宮八幡宮大祭参集町内御輿の連合渡御にっいて」と発起人を中村宮司と四番組組頭池上繁治氏を立て、大師中町町内会会館で開催致しました。実行委員長には町内会連合会会長の吉野辰男氏が就任致しました。
第一回目は、昭和60年8月11日若宮八幡宮大祭日先達御輿の大師中町を先頭に伊勢町御輿、大師町御輿、大師本町御輿、中瀬町御輿と各町内の子供御輿にお難子連が参加し、最初は5町内会での発足と成りました。お大師様も大変歓迎されて、神輿連には毎回歴代院代様のお加持を戴き、今では年中行事にも加えて戴いております。
当時の夏祭りは各町内会により毎年実行されません。表と陰があり、隔年祭礼開催、あるいは東門前町内会のように三年に一度の町内会も有ります。また、中瀬町内会のように夏祭りの無い年は、神輿の陰干しと称して参加された町会も有りました。また、この連合渡御を機会に毎年祭礼を実行されるようになった町内会もあります。
この連合渡御は毎年実行され、隔年祭礼開催の町内会も、以前は若宮八幡宮に参集されて居なかった町内会も参加するようになり、回を重ねるごとに盛会を極め、今では地域夏祭りの大イベントと発展して参りました。
そして今回は、川崎大師平間寺10年毎の大開帳にあたる年に、第20回目の連合渡御の開催を迎える事が出来たのです。このような行事を発案された故川上様の功績もさることながら、地域の行事として長く根付く事が出来ましたことは、関係者皆様方の熱意あるご努力の成果と存じます。
私もその事業に最初から参加する事が出来、現在も関わりを持つことに感謝しております。連合渡御の20周年を記念して、拙い文章ですが発足当時を想い出し、紹介させて戴きました。
昭和62年8月9日、療養加療中だった川上会長は、第3回連合渡御が施行され、川崎大師平間寺境内に参集した御輿連を見届けた後、その日の内にご逝去されました。
川上様は、夏祭りを命日とされ、後世まで人々の心の中に想い出される事でしょう。